沖縄最終日
沖縄で買った黒糖を1人で食べつくしている「黄色F改」です。
5袋買ったうち3袋目を完食。
1ヵ月半に及ぶ黒糖との格闘もコレで最後になりそうです。
口に入れるだけで気持ち悪い。。。
沖縄最終日も雨です。
小雨程度が降ったりやんだり。
昨日、晩ごはんを一緒に食べたお友達(那覇在中)の方は空港職員。
空港の先にある「瀬長島」で飛行機が真上を飛ぶのを見る事ができるって言うので行ってきました。
確かに真上を飛んでいきます。
で、この島をくるっと回って思い出したのが、僕が20歳の時に沖縄に初めて来たときにレンタルバイクでコケた場所でした。
うっすらとした記憶がはっきりとした瞬間でもありました。
午前中はまたも平和学習。
案内の方にシュウはすぐになついてダッコしてもらってゴキゲンです。
この壕は人の手によって掘られた壕で地質が柔らかく崩落し続けているそうです。
安全のためにヘルメットとライトを借りて、この壕でどのような事が起こったのかを聞きました。
中はココも完全な闇の中。
シュウは何がなんだかわかってないので、闇の恐怖をまだ感じないようです。
たぶん来年になったらダメでしょうね。
こんな暗い中で傷病兵が治療を受けていたと思うと、今では想像も付きません。
この壕はトンネルになっていて、長さが100mほどしかありません。
しかし、隣にも同じようなトンネル壕が掘られていて、隣との連絡用通路(崩落してるけど)があります。
いまでも、ビンなど当時のものが埋まっているそうです。
崩落を防ぐためにトンネル壕の殆どがモルタルで固められ、当時の面影はありません。
しかし、ベットの骨組みの木が壁に残っていたりします。
この通路の幅は1.5mほど。
その半分が2段ベット。
残りの半分が通路となっていたそうです。
病院壕の近くには「飯上げの道」があり、その先に資料館があります。
資料館の中には当時のトンネル壕を再現してあります。
ホンモノの壕よりも幅は広く作ってありますが、それでも圧迫感を感じます。
ベットにはマネキンを傷病兵に見立てて寝かせてあります。
その服を着た表情の無い人形に目には見えない表情が浮かび上がってくるようで、直視することが困難でした。
壕から出土した医薬品。
板のベットの上でいい加減な手術をしていたのかもしれませんが、当時なら手術をしてもらえるだけ幸せだったのかもしれません。
自らの体の傷口を手当もしてもらえず、ウジがわき払い落としたくても動かない体で、ただ自然に死ぬのを待つだけの兵も沢山いたでしょう。
昨日の糸数のアブチラガマで150人中7名の生き残りで、去年亡くなった方はこの南風原病院壕に搬送されたそうで、迫る米軍から撤退するのに、ここで見捨てられたけど奇跡的に糸数の壕へ担架に乗せられて搬送されたそうです。
ただ、アブチラガマでも見捨てられたのですが。。。
去年まで語り部として役目を果たせと神様に言われていたのかもしれません。
で、資料館には近くで出土したのか、遺留品やら残骸が山のように積まれてました。
シャーマンまで。
何気に近くの森とかに転がっていたのでしょうか?
いまでも探せば、砲弾の破片などがたくさん出てくるそうです。
サイパンやグアムでも沢山ありましたよ。
平和学習は終わり。
またも那覇市の公設市場裏に車を止めて、丸安食堂でお昼ご飯。
前に来たときもココで食べてます。
ソーキそば。
出汁は薄め。
でも麺に塩味が付いているのか、メンとダシを一緒に行くとええ感じになります。
公設市場が観光地化されているので、観光価格ですが、ここは地元の価格ですのでリーズナブル。
でもって、早くて安くてうまい。
シュウはまたもサータアンダギー。
僕も嫁にゃんも何個も食べました。
僕は昨日との通算で6個。
シュウは3個。
食いすぎや。
レンタカーを返す時間までまだ余裕があったので、またも瀬長島へ。
レンタカー屋さんへの通り道なんです。
今頃になってようやく青空も見え始め、結局6~7割は雨の沖縄観光となってしまった。
最後に撮ったのっていつか思い出せないくらいご無沙汰です。
沖縄の民謡に使う傘などのレンタルもありますよ。
そして、タイムアップ。
5日間の沖縄家族旅行はこれでおしまい。
僕は満足のいく旅行だったけど、嫁にゃんのスケジュールの大半はキャンセルとなってしまったので、また行きたいと言っていた。
さすがに、また連休って取るのは難しい。
しかし、僕はもう一度平和学習の一環として
穴に潜りたいっス!