沖縄④
レンタルでブルーレイを借りた事が無い「黄色F改」です。
ブルーレイのデッキあるんやけど。。。
買って1年以上たつけど、一度も再生した事無い。
完全な持ち腐れです。。。
沖縄4日目。
外は台風の影響で雨です。
嫁にゃんは朝からダイビングに行く予定で、僕はシュウと2人で平和学習するつもりでした。
しかし、シュウの発熱と台風の影響でダイビングは中止。
シュウの熱は下がってるので、平和学習って言うただの雨のドライブとなりました。
まずは「山形の塔」
この手の塔はそこかしこと立っています。
糸満方面に向かってる途中に看板があったのでちょっと寄り道してみました。
この塔のすぐ横には
地下深くにのびる階段が。。。
ゲートとかしてなかったら光の届く範囲までなら入ろうと思っていたのですが。。。
どうなってるのか気になるのは僕だけでは無いはず。
1人なら突破してたかも。。。
その奥には「白梅の塔 上の壕」の碑が。
その先には巨大な口をあけた鍾乳洞があり、もともと物資集積所として使われていたけど、白梅学徒看護隊の仮眠所として使われていたそうです。
しかし、米軍の進出により激戦となり6月末に日本軍、学徒看護の生徒たち、一般市民が沢山無くなった場所でもあります。
穴は直径10mほど。
当時のままの姿ではないと思う。
爆撃されてこんな天井を天に向けた状態ではなかったと思うのです。
すぐ近くには「白梅の塔 下の壕」があり、そこでも沢山の尊い命が注ぎ込まれたのです。
いまもこの中には救助を待つ学徒生や一般市民、また日本兵が眠っているのかも知れません。
耐え難い雨に移動を開始しした矢先に、何気にコンクリートの四角い建造物に目がいった。
そこには機銃か何かで蜂の巣のようになった壁がいまでも残っている。
こういった物も時間と共に減少しているんだろうけど、いまも注意深く散策すれば普通に見ることのできる光景が続いている。
いったいこのコンクリートの壁をどれほどの方が目にしたのだろうか。。。
そして、その当時、このコンクリートの壁を見た人にはどのように映ったのだろうか。。。
次に向かったのが「轟きの壕」です。
ほんまにこんな所にあるんか?って思う森の中に今までに見た中で最も巨大な穴を開けた洞窟がそこにはあった。
穴の直径は50mはあるだろうか?広いところでは100mくらいありそうな入り口。
そこには、いろんな方が平和学習で訪れるのだろうけど、現場の足場が組まれていて、階段は程よく広さがあって足元は非常によい。
しかし、薄暗いのと雨のひどさに、細かくみる余裕なし。
その穴の途中に下に真っ直ぐ落ちるような穴が開いていた。
あの当時、食べ物も無く小さな子供や赤ちゃんはお腹が減って泣いたりしました。その泣き声を聞きつけて米軍が迫って来るかもしれません。
今すぐ泣き止ますために自ら我が子の命を奪い、この穴に捨てたそうです。
奥を覗き込んでみると、いまでも赤ちゃんのお腹をすかした鳴き声が聞こえてきそうです。
どんな思いで我が子に手を掛けたのか。
もしも、いま、僕がシュウを・・・・
そんな想像をしてしまうと、雨が顔を伝うのを止める事ができませんでした。
シュウと嫁にゃんは暖かい車で待機。
その姿が見えたときにはまたも雨が伝います。
平和な時代に生まれてよかったと。。。
ちょいと移動すれば穴。
中はこんな感じ。
あんま奥まで行くとよく見えないのと、雨が入り口から中に流れ込んできてて泥だらけに。。。
レンタカーの中がエライこっちゃです。。。
もしも晴れてて、嫁にゃんがダイビングに行ってて、僕とシュウがこの中に。。。
怒られちゃうね。
ぜったい。。。
ここは具志頭城跡の下にある「クラシンジョウの壕」です。
なんの看板も無く、道路からはまったくわかりません。
近所の方に場所を聞いて行ったら、銃眼がありました。
その近くには小さな穴が開いていて、
決して広くはない印象です。
入り口の穴は横1m縦70cmくらいで、戦闘が行われた感じがしません。
銃眼の中。
ゴミも無くキレイです。
銃眼が破壊されていない時点でここまで米軍は迫って居なかったのか、もう相手にされていなかったのか?
なんの案内板もないのでさっぱりわかりませんでした。
シュウが車で寝てるので嫁にゃんも付いてきましたが、しきりに車に戻ろうって。
まぁ、慣れてないと気味が悪い場所です。
ここも白梅学徒看護隊の壕です。
しっかりした階段の奥には・・・
なんもないです。。。
ここにも案内板などがないので、詳しい情報はありません。
調べりゃいいんだろうけど。。。
まぁ、よろしいですやん。
次に「糸数 アブチラガマ」に。
ここでは案内の方に先導してもらって説明を受けました。
一応撮影禁止だったので、入り口と出口のみ撮影したのですが、なぜかエラーで見ることが出来ませんでした。
なので、入る間際のシーンのみ。
ココの壕には傷病兵が約150人ほど収容されて、米軍が迫ってきたので動けないものはみんな見捨てられてこの中に残されました。
この中で終戦までの3ヶ月間、奇跡的にも生き残った方が。
150人中7名の生存者がおられました。
そのうちの最後の生存者が去年亡くなったそうです。
洞窟の見学とその場所場所の説明をされる案内の方が、今までも何度も同じ話をしているハズなのに、目を赤くさせ声を詰まらせながら説明してくれる姿に、思わずもらい泣き。
修学旅行のコースになっているようで、とても有名なガマです。
でも案内ナシに入ったらただの暗い穴です。
何の感情も沸かないでしょう。
ぜひ案内の方と一緒に平和学習をしてほしいです。
他の壕(ガマ)にも「沖縄平和ネットワーク」に連絡すれば案内してもらえるかもしれません。
で、ここから急に旅行な感じに。
その間、僕とシュウは
ニャんコと遊んで
サータアンダギー食ってご満悦。
帰りもゆいレールに乗ってホテルまで。
2時間ほどしか無かったけど、シュウと2人ってあんま無いから楽しかった。
そして晩ごはんは、嫁にゃんの友達(沖縄在住)の方と一緒にゴツいステーキを。
でも、昼間っから車と電車で移動のみのシュウは、エネルギーが余りまくってて店内で大騒ぎ。
そのたんびに店の外で大人しくなるまで遊んでの繰り返し。。。
元気なお子様はお断りな店にはしばらく行けない。。。
穴も危なくて連れて行けないなぁ。。。