夜に僕の前を行く女性の歩く速度が明らかに速くなったと感じた「黄色F改」です。
ナニサマのつもりやねん!
そのまま早歩きでヒール折れたらええねん!
さて、いつぞやの北京からです。
みなの衆は「盧溝橋」って知ってるかい?
だから、日本人に「盧溝橋事件」やら「7.7事変」と言ってもほとんどの人が知らないと思います。
昭和12年の7月7日に日本軍と中国革命軍が衝突した場所なのです。
ものすごくアウェーな場所にいますねん。
そもそもその当時、なんで日本軍が北京の南西付近にいてまんねんって事です。
話せば長くなるので、「北京議定書」ってのを読んでね。
で、その橋の近く(橋の北東あたり)夜中の演習中に日本軍に向かって数発の銃弾が打ち込まれたんです。
そりゃもう「ゆるさん!」って事になりますわな。
そん時の偉いさんが「牟田口連隊長」に撃たれましてんって報告したんですね。
その間もモールス的な連絡を向こう岸でやりあってる訳です。
もう間違いないですやん!ってなりますわな。
で、また撃ってきたんですって。
実弾を!
まぁ、爆竹ちゃうんってな話も。。。
でも、牟田口連隊長はこれ以上勝手に拡大させたらアカ~ン!って言うてたらしいです。
そうこうしてるうちに朝になって薄ら明るくなってきた時にまた撃たれましてん。
本気で狙ってるやん!って事になって、発砲許可が下りたわけです。
でもって、ビッシャビシャにいてこます前に交渉するために派遣された連隊長代理の偉いさんが交渉に行ったんです。
すると、中国軍側は「あれれ?日本軍ビビってんじゃね?」ってな事になって
日本軍側に向かって大砲みたいなのを撃っちゃったんです。
ちなみに、真ん中のボコボコが当時からのオリジナルの橋のまま。
大八車とかが沢山通った跡がいまでも残ってます。
両サイドがボコボコを削って平らにしてありました。
ちょ!本気ですやん!ってな事になって日本軍がうわ~っとなだれ込んだ訳です。
一旦落ち着いて、中国軍側の情報を集めると正規軍だと解っちゃったわけ。
ちょ~もう撤退して!
ってなんどか交渉にいって承諾しつつも逆に兵力を増強していく中国軍。
でもってたまに調子に乗ったアホが射撃してくるわけです。
いっぱいいるし、誰が撃ったか解らんし。ってな考えでしょうか???
日本軍側はその事について抗議をして、撤退を要求し続けてようやく撤退したかと思われたが、実は別の場所で再結集してた訳。
もう集まったらアカン!って約束したのにさ、
約束破って中国軍が侵入し占拠しちゃったのさ。
やったね!って感じでしょうな。
そん時に日本軍に向けて攻撃をしかけた中国軍の銃弾は、日本軍に戦死者を出す被害が生じちゃって、日本軍が反撃に出て、ボッコボコにいてこましたんです。
翌日には日本軍はそのあたりから撤退。
でも、また城の周辺で中国軍が集まりだしているのをよろしくないとみて、双方撤退で協議は締結したとどこぞの本で読んだのだが。。。
事の真相はどうかはわからんです。
その当時からあるこの狛犬は当時の出来事を見ていたのかもしれません。
実際にはこの橋のちょっと北の「竜王朝」ってとこなんやけどさ。
城内は商店やら民家が立ち並び、異常な数の路駐も見慣れた光景となってきました。
真ん中のゴツゴツとした道路はさっきの盧溝橋の続き。
数本の溝が見えるだろうか?
それが大八車などの車輪のわだち跡です。
渋滞した中でもお馬さんが引く台車が生活の足の一つのようです。
二酸化炭素を大量には吐かないので、ちょっとエコかもしれません。
ちなみに城内には「抗日戦争史学会」なる博物館的な建物も。
中に入ってみたかったが、朝早くに行ったので開いてませんでした。
戦車がおいてあります。
当時の中国軍にも戦車があったのでしょうか?
いまではこんなに平和で活気にあふれる街になったのに、当時はいがみ合い殺しあったと思うと、その笑顔が複雑に見えてしまいます。
今も国同士はいがみ合ってる感が強いけど。。。
そして日本に帰国し、武漢でお世話になったジャンさんが日本に来ていたので家に遊びに来てくれました。
で、盧溝橋に行った話しをしたら「よく無事に帰って来れましたね」って。
大丈夫です。
僕はその時だけ韓国人になりきってましたから。
その2日後
マーライオンが目の前にいた。。。