塩風呂具

オフロードバイクがメインです。

旧日本海軍指令壕

キンキンに冷やした部屋で寝てたら喉をやられた「黄色F改」です。



痛いです。



風邪をひいたみたいな感じで辛いです。。。




喉も痛いが心も痛い。。。







お久しぶりの慰霊碑です。


ココは旧海軍の指令室のあった壕です。


第32軍がココで頑張っていたのですが、最終的には玉砕してしまいました。


修学旅行にきた中学生と共に先の大戦で散った英霊のもとに心静かに訪れていくのです。











長い階段を下りて壕の中を進んでいく。


昔はノミとクワでコツコツ掘り進んだと思われる跡が残っている。


そして通信室など、設備こそ無いが部屋はそのままの形で残っている。。。








幕僚室には自決したときの手榴弾の跡が残っている。

僕の立つ足元が鮮血で染まり血の海と化したと思うと背筋が冷たくなる。









僕はとっても特別な人と思っているので、ふだん入ってはいけないような所でも魂となり進入することが出来るという特異体質なのだ!(ちゃんと許可あるよ。一般は勝手に入っちゃだめだぞ!)



ってなもんでして、






司令室です。


ここでも最後の自決をするときに皆で読んだ言葉が当時のまま残っているのです。



そして大田司令官が送った電文


「昭和20年6月6日20時16分発
 次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう、取り計らってください。
 
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく
32軍(沖縄守護軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は県知事に頼まれた
訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいた
します。

沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関してはほと
んどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全
部を防衛のためにかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ
わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所の小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下で
さまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。

しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運びや切り込み隊へ
の参加を申し出る者さえさえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され女性は後方に運び
去られて暴行されてしまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で娘を軍に預ける親もいます。

看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を
助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。

さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住居地区を指定された時、輸送力の
ない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。

これらをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで労働奉仕や物資
の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながらついに(不明)報われることもなく
この戦闘の最後を迎えてしまいました。
 
沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしま
い、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
 

沖縄県民はこのように戦いました。
県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。」




コレは現代文に訳したものです。


本当の書き方だと読みにくくて。。。





なぜか、悔しくてくやしくて。。。