そういえば、昨日はお風呂に入っていない「黄色F改=臭い」のです。
洗濯物も溜まってきたのでやばいです。
さぁ、昨日の続きだ!
今夜のディナーは「柿ぴー」と「水」
蛇口からポンジュースが出るはずなのに出ないので、仕方なく水になってしまった。(ひっぱりすぎやね)
そして、佐田岬へ向かう途中の「メロディライン」を通っていると、
ものすごい霧と雨に見舞われてしまった。悲しい。四国でも雨なのか。。。
とりあえず、先っぽの港で移動をやめてお休みすることに。
で、朝だ!
青空だ!
ひっさしぶりに見る朝の青空のような気がする。(昨日も見てるけどね)
なんやろか?なんやしらんけど、やる気出てきた!
やる気の歯磨きタイム!歯グキが取れるんちゃうかってくらい渾身の力を込めて磨きまくります!
なんや、でも、カラオケの後姿みたいやけどね。
なんや、でも、カラオケの後姿みたいやけどね。
でも、ココへ来たのはこの為じゃないのよ。本当は・・・
通信所と高射砲を収める塹壕なのです。
慰霊碑などはありません。コレが見たかっただけ。まえ~にも来た時はなんとも思ってなかったけど、今から思うと感無量なのです。この気持ちはわからんやろねぇ。
で、次に向かうは「九軍神慰霊碑」佐田の三机と言うところにあるのですが、すでに8:00を回っている。急がねば!(ちなみに九軍神とは、真珠湾で散った9人の特殊潜航艇搭乗員のことである。と思う)
写真を撮って、看板に書いてあるのを読んで、一息ついて8:30なのだ!我ながらナイスタイムです!今日はイケル!めっちゃイケル!と、思ってた。。。
しっかし・・・
管理棟のおばちゃんがご出勤してきて困っておられるご様子だったので、話しかけたら「電気がつかない」とお嘆きだった。で、サクッと直してあげたら、「どっから、何しに来たの?」と誰でも疑問に思うことを聞かれたので、「先の大戦で散っていった英霊の魂を慰霊に来ました」とカッコよく答えると、
「私は(右のおばちゃん)この9人を知ってるよ」「このとき私は9歳で、一生懸命訓練をしていたよ」
「実際はもっと軍人さんがいて、にぎやかだった」等々。
「私は(右のおばちゃん)この9人を知ってるよ」「このとき私は9歳で、一生懸命訓練をしていたよ」
「実際はもっと軍人さんがいて、にぎやかだった」等々。
更にはこんな話も。
「ココに訓練に来ていた兵隊さんの中で、畑のトマトを盗んで食べた人がいてね、そのことを兵隊さんの上官に告げ口したおばさんがいたのよ。でね、たぶんすごく怒られたらしくて、その兵隊さんは自殺したの。でもね、その兵隊さんが日本を守ってくれるのに告げ口しなくてもいいじゃない?私は当時、子供だったから知らなかったけど、裏ではもっとすごい話があるらしいの。でもね、語り部のおばさんも去年亡くなっちゃったから、もう聞けないのよ。こうやって、ちょとづつ昔の話が消えていくのって寂しいよ。出発の時はみんなで見送るのかと思ったら、いつの間にやら居なくなってて、そして戦争になったの。しばらくしたら、その9人が軍神として奉られてね、どんな気持ちで出発したのか、今思うと胸が締め付けられる思いよ」
おもわず、ホロリです。完全に僕の目には当時の景色が映っていました。もっとも想像の世界ですが。
10時のおやつを食べ、コーヒーまで戴いて、のんびりしているともう一人のおばちゃん(左)がやってきた。
延々と文句を言っているのだがさっぱりわからん。なので、退散。おばちゃんに精一杯のお礼の言葉を言って別れ際に「いわみや旅館に行きなさい。あなたは行くべきよ」と、まるでドラクエ(やったこと無いけど)のごとく教えてくれた。
この「いわみや旅館」だが、当時、日本軍が寝泊りしていた宿で当時のご主人とその娘たちが世話をしていたそうな。
さっきの「語り部」とはこの旅館の娘さんで去年亡くなった「緑」さんのことだった。
このショーケースは、戦争に行って帰ってきた息子さんが作ったものだが、どこぞの行政が作ったものよりしっかりしている。
若女将が説明してくれたのだが、叔父さん(帰ってきた息子)から聞いた話と、みどりおばさんから聞いた話を聞かせてもらった。
当時、世話をしていた娘さんたちと近所の同い歳の娘さんたち6人を「オトボケガールズ」と呼ばれていて、当時はまだ戦争に突入する前だったので、横文字を使えたのだろう。遺書の中にも書いてあった。
しかし、残念なことに、今まで色んなところでいろんな遺書を読んできたが、みなさん達筆なので僕にはほとんど読めない。若女将も読めないと言っていた。
ココに来て話をするのは叔父であったため、ほとんどわからないそうである。
「兵隊さんはみんな礼儀正しくて、面白くて、毎日辛い訓練を重ねて私たち日本を守るためにがんばってくれていた。どんな気持ちで出撃したのか。そのときの兵隊さん達には、本当のことを話すこともできないし、聞くこともできない。そんな時代でした」
せつない思いで「いわみや旅館」を後にした。
僕は、ただの興味本位で慰霊碑めぐりをしているが、なんだか申し訳ない気持ちになってきた。
これでいいのだろうか?
あまりにも「当時」の話が生々しかったので、いつもは詳しく書かないようにしていた。
「何を惜しまん 君が御盾となる我は 五尺の身 粉々になることも」